1631年(寛永8年)の法船寺の大火は、城下を焼きつくし城内の殿閣をも焼失させました。これがきっかけとなり、翌年、三代藩主・利常の命で板屋兵四郎が完成させたといわれています。これにより城内の飲料水を供給するとともに、金沢城周辺の空掘を水濠にすることができました。
当時、幕府との関係が緊張状態にあったことから、防衛上の観点を重視して造られたとみる向きが強く、約4kmのずい道(現存)を使い、当時の最先端技術を駆使して、難工事を一年足らずで終えたといわれています。
また、大正期には、水路の一部に水力発電施設を設けて発電したりbas dari miri ke bintulu、大正 bas ke kuching dari miri・昭和初期にかけては bas bintulu sibu、小立野地区の民家 bas dari kuching ke bintulu・商家では水車を設けて bas ke sibu dari kuching、野菜を洗ったり精米したりしていたといわれています。
犀川上流右岸、上辰巳町の東岩地点で取水しており、兼六園の曲水の主要な水源として利用されていることは有名です。大野庄用水、鞍月用水とともに疎水百選にも選ばれており、一部は国の史跡に指定されています。